51余りの己の失態振りに頭を抱えんばかりにオロオロしたのだが、泥酔して いたことと……世話になっていて酷い言い草だとは思うが、以前より奈羅 から秋波を感じてはいたものの、自分が好意を受け取れるゾーンには少しも 受け入れることのできない相手であり、あとのことも考えて綺羅々は下手に 出るのは得策ではないと瞬時に判断した。 「そっか、ありがと。悪かったね、手間を取らせて。 今日はどうしても外せない用事があるのでこのまま失礼するよ」「えっ、朝ご飯だけでも一緒に食べようよ」「えーと、ごめんよ。ほんとにもう時間がなくて……」 そう言うや否や、綺羅々は大急ぎで部屋を出た。勿論ちゃんと会計窓口で支払いも済ませて。昨夜同じ部屋に泊まったふたりの間に性的な関わりなど当然なかったかの ような言動で最初から対応したのが功を奏したのか、奈羅が一言もその辺の ところを突いてこなかったので、綺羅々は胸を撫で下ろした。綺羅々が唯一気になったのは薔薇のことだった。薔薇とはずっと一緒だったはずなのに一体全体どーしてこうなった? 酔っ払いがうっとおしくなって、自分を置いて先に店を出て行ったのだろうか? 自宅に戻り落ち着いたら、薔薇に連絡してみよう、そんなことを考えながら、 急ぎ足で綺羅々は帰路についた。そして自宅に着くとすぐに薔薇にメッセージを入れた。『薔薇、昨日は君と話せて楽しかった。 明日もしもよければ、また会いたいんだけど、何か予定入ってる?』こんなふうに、昨日どの辺りから自分が薔薇と一緒ではなくなったのか、と いう本当に訊いてみたいことはオクビにも出さなかったのである。それにしても、うれしくて浮かれたからと言って泥酔してしまうとは…… 情けなさ過ぎてクッションに顔を埋めて悶絶する綺羅々だった。
52待ち続けていた綺羅々からのメッセージ。 私は飛びつくようにして読んだ。奈羅からの余計な連絡で落ち込みまくったあとでの綺羅々からのメッセージ。私が送ったメッセージに対する返事は何も書かれてなくてガッカリだ。奈羅とOne Night Loveしたから? 彼は奈羅と私に二股しているわけ? って違うか。 私とはまだ何も始まっていない。私からの昨夜無事に帰れたのかという問いかけにも反応しない綺羅々。奈羅の送ってきた映像で確定事項となっていて、昨夜彼は奈羅と一緒に いたはずなのに今日私に会うことに積極的で。これって、私の立ち位置なら誰もが綺羅々に対して『……ざけんなっ』って いう反応を返すような状況なのに会おうなんて言う。いくら考えても、何かがモヤモヤして胸に引っ掛かるのだ。彼の言う通り今日会えば自分の納得のいく何かを……とにかく今の状況より は1つでも多くの情報を知り得ることができるかもしれないと思い、私は彼 と会うことにした『Hi! 予定はないわ。どこに行けばいいかしら』 というメッセージを彼に返信した。翌日私は待ち合わせ場所へと向かった。約束の場所へ着くと私より先に来て待っていてくれた綺羅々がにこやかに 手を振り話し掛けてきた。「昨日はせっかく楽しく話してたのに途中で酔っ払っちゃってごめん。 俺何か君に迷惑をかけなかった? 恥かしながらドームを出た頃からの記憶が飛び飛びで……もし、迷惑かけて たら申し訳ないって、ずっとそればかり気になっちゃってて……」綺羅々の謝罪発言で、彼がすごく私のことを気にかけてくれてたんだと分か り、荒んでた私の気持ちが少しだけほぐれた。好かれていると勘違いさせるような気の使われ方をして……でもやはり、 奈羅と一夜を共にし、彼女と一緒にベッドに寄り添っていた彼の姿、それら の映像が、私の頭の中から消えてはくれず……それなのに目の前の爽やかな 彼の笑顔と やさし気な話し声に私の胸は苦しくなるばかりで痛かった。彼のイケボを聞いて益々彼のことを好きになってしまいそうで、それも 辛かった。
53綺羅々から、ずっと前から予約していた宇宙船に乗ろうと誘われて乗船した あとも、彼が奈羅との一夜をどんな風に消化しているのだろう、 どれくらい好きなのだろう、 彼女と仲良くしておいてどうして私をデートに誘うのだろうって……彼の 気持ちが知りたくてぐるぐる同じことを想い続けてしまう。そんな気持ちの不安定な私に綺羅々はずっと気遣ってくれて、 素敵な場所に 連れて行ってくれた。「楽しくて面白い場所があるから少し船を降りてみよう」彼からそう提案されて降り立ったのは、地球の雲の上だった。小さな天使たちの指導的立場の天使たちが見守る中、小さな天使たちは 思い思いに自分たちが選んだ滑り台から次々と滑っていく姿があった。 「あの下界へと続く滑り台を滑っていくとあの子たちはどうなるの?」「地球に住む女性のお腹に飛び込んで、その女性の子供として産まれ、 一生を過ごすんだ。皆、自分で選んだお母さんの子供になるんだ。でも大抵皆、そのことを忘れてしまうみたいだけどね。 面白いよね。 中には自分で親を選んでない子たちもいるらしいけど」『人間……』 大好きな綺羅々と会って話をするのも、イケボを聞くのも、彼の心情を慮る のもどんどん辛くなってきていた私は、事故を装い倒れ込む振りで、側に あった滑り台からスルスルっと下界に向けて滑り落ちていった。 『さよなら、綺羅々』「ワァー、アァー……薔薇~、薔薇~待って」悲壮な綺羅々の叫び声を背中で聞きながら、私は日本人のお母さんのお腹の 中に飛び込んだ。そして自ら望んだように、綺羅々との記憶を消してしまっ たのだ。
54 ― 長老に学びに行く ―余りのことに悲しみに暮れる綺羅々。アクシデントで人間界へ行ってしまった薔薇。失態を犯したにも関わらずデートに誘うと会ってくれた薔薇。デート中自分の話に耳を傾けてくれていたけどどことなく、哀し気だった薔薇。だからこの先も何度もデートに連れ出し、楽しい気持ちに、そして元気にしてあげたいと考えていたのに……それどころか彼女はバランスを崩して覗き込んでいた滑り台から滑り落ちていってしまった。そして彼女が消えてしまった場所には、バッグが残されているだけだった。一昨日の挽回をするため、薔薇が楽しめるようにとデートに、宇宙船に乗り込み地球上の天界の様子などを見学することに決めたのだが、大変なことになってしまい 意気消沈する綺羅々。その後、事故のあらましを薔薇の家族に連絡し、貴重品であるバッグを返しに行くことになる。薔薇の両親と姉たちは残念がりそれなりに胸を痛めている様子が見てとれたが、彼らは人間とは違いまた将来互いがどこかの時代どこかの場所で産まれ変わり再度出会うことを知っているので、深い絶望まではいかない。この時綺羅々は、薔薇の家族のためでもあるが自分のために、地球上に産まれ落ちた 薔薇の様子を定期的に見守り、金星よりずっと時間の流れの速い地球で薔薇が人間としての一生を終えた時、地球の地上から離れ天界迄の空間に彷徨っているところを見計らって迎えに行こうと決心した。ただ、それは100%上手くいくかどうか分からないことなので薔薇の家族には話さなかった。できれば連れ帰るのはここにいた時のままの薔薇で連れ帰りたい。そのため、この時の綺羅々は長老のところへ行き、薔薇が元いた場所に同じような年齢軸で連れ戻せる方法を学ぼうと決めていた。
55 ― 奈羅の企みを知った綺羅々 ―薔薇のいなくなった悲しみを彼女の家族と共有したあと、母親が薔薇の部屋に案内してくれた。そして『美味しいおやつと飲み物を持ってくるので少し待ってて。あなたも疲れでしょ、何か口に入れてゆっくりしていってね』……と言い置き、『あ』や『い』も言わさず彼女はさっさと部屋から出て行った。俺は側にある椅子に座って待つことにした。「はぁ~、参ったな」正直な気持ちが呟きとなって零れ落ちる。綺麗に整理整頓された薔薇の部屋。できるなら、彼女の恋人として訪れ、実のある会話で楽しい時間を過ごしたかったなと切実に思う。とそこに突然薔薇の元へ誰かからメッセージが届いたようで、透明のタッチパネルが部屋の中で立ち上がった。自分へのものではないから少し戸惑いがあったが、やっぱり湧き上がる興味には勝てず、パネルを引き寄せメッセージを読んでしまった。『Hi! あれから何のリアクションもないから念押ししておくわ。綺羅々のことはきっぱりと諦めること。彼が好きなのは私だからね。いい、分かった? 私たちは付き合ってるのよ、だからこの先綺羅々に近づかないこと、私たちの邪魔をしないこと――奈羅』あれから……ってことは、他にもメッセージが送られてきているってことだな。俺はパネルを操作し、このメッセージの前にも奈羅から送られてきていたメッセージを見つけた。そこには信じられない言葉の羅列と映像が添えられていて、俺は頭を掻きむしりたくなった。それでだったのだ。デートの最中も薔薇の瞳が悲しみの色で覆われていたのは…… 俺の思い違いなんかじゃなくて、こういうことだったのだ。俺はこの時ほど己の自己管理の甘さと脇の甘さを呪ったことはなかった。
56― 出会いと再会(美鈴《薔薇》)― 新天地での暮らしが漸《ようよ》う落ち着いてみれば、暦は落ち葉が舞い落ち何となくもの寂しさを感じるようになっていた。そんな暮らしの中、初めての町内会の回覧板が回ってきた。そこには掃除の件の他にバス旅行の案内が記されていて、費用について観光バス代・昼食代・有料道路代・入園代含む費用9100円と書かれてあった。町内は高齢者ばかりのようだから、どうしようかななんて考えたけど逆に同世代のいない気楽さがあるかもしれないし、顔見知りのいない今だからのお気楽さとも併せて行ってみようかという気持ちになった。締め切りギリで申し込んでから約1か月後に私は町内会のバス旅行に参加した。当日バスに乗り込むと、皆《みんな》親子連れ2人とか老夫婦で参加していて出発ギリギリまで1人で座っているのは自分だけ。ひゃあ~、気楽ではあるけど余りにも寂しいような……微妙な心持ちになった。出発直前にバスガイドさんからの点呼が始まり「え~と後は根本さんがまだいらしてないようですので皆様、今しばらくお待ちください」とアナウンスがあった。『私の隣になる人はどうもその根本という人みたいだ。爺様なのか婆様なのか、はたまたおじ様なのかおば様なのか。4択のどれなんだろう』そんなふうに想像していたら、イメージ外のイケボでものすごい顔立ちの整ったそこだけ眩いオーラで纏われたモデル級の男性が姿を現した。「いやぁ~、遅れてすみません。根本です」「おはようございます。根本さんのお席は野茂さんの隣になりますのであららへどうぞ」バスガイドはそう言うと直ぐに挨拶を始めた。
57 「皆様お待たせいたしました。 本日はお天気にも恵まれ、絶好の旅日和となりました。これから水族館、染め物体験工房、ビール工場へと順次訪問予定に なっております。最後まで皆様にとって良い思い出がたくさん出来ますよう、精いっぱい 努めさせていただきたいと思います。それでは出発します」『やっと、逢えた~感無量だ』美鈴に対してそう胸の中で呟いたのは根本圭司《ねもとけいし》。「おはようございます」「おはようございます」爽やかな挨拶を美鈴と交わし圭司は座席に座った。「今日は天気が良くてよかったですね」 「あ、はい。そうですね」 「今まで……お見かけしたことありませんよね?」 「ええ、2か月とちょっと前に越して来ました」 「そうでしたか。え、わたくしこういう者です」そう言って私は根本さんから名刺を渡された。へぇ~、市役所にお勤めなんだ。 名刺には建設局土木管理部・土木管理課とあった。公僕の人の名刺があれば、何か困りごとが起きた時頼れそう~。 私は彼の名刺を有難くバッグに大事にしまった。それから私たちは、お互い町内のどの辺りに住んでいるかというような世間 話などで最初の訪問先までの時間を費やして過ごした。 初めて会った見ず知らずの、とんでもないイケボの方とあまりにも普通に 会話している自分にびっくりするわ。ふふふ。きっと根本さんが気さくで話し上手なせいね。バス内で会話を繋いでいるうちに、最初の訪問先である水族館前に着いた。私たちはガイドさんに促されて下車。 そこでガイドさんからの案内アナウンスがあった。決められている時間内に水族館前に集合ということで私たちは解散した。
58『一人で水族館巡りかぁ~』なんて考えていたら、すっと自然に側にいた根本さんから話し掛けられてそのまま一緒に見て回る雰囲気になった。あちこちあ~だこうだと話しながら、最後には一緒に座り何年か振りにイルカショーを見た。彼と声を掛け合って楽しいをシェアできて気持ちよかった。気付くと自分に笑顔が増えていたー。普段使ってない筋肉をめいっぱい使ったような気がする。さて、次に訪れたのは京友禅体験工房での染め物体験だった。何種類かあるうちの型紙を選んで染料を筆に取り塗って染めていく。仕上げた後で根本さんと見せ合いっこして、感想を言い合った。イケボとの会話は殊の外、心が癒された。そしてその次に行ったのがビール工場の見学で機械を見たり、ぬいぐるみと一緒に撮影したり……私と根本さんふたりで一枚のフィルムに中に納まった。『ねぇ、確実に私……運気上がってない?』存外に楽しくて、バスから降りる段になるとあっという間の一日だったなぁ~なんて思えた。自宅に戻れる安堵感と共に、ひょいと寂しさが顔を出す。「今日は1人きりでの行動だと思っていたのに根本さんと同行できて楽しかったです。ありがとうございました」「それはわたしのほうです。やっぱりおしゃべりできる相手がいると楽しいし、時間の過ぎるのがあっという間でしたね。ははっ。」「じゃあ、これで失礼します」そう言い、美鈴が潔く踵を返し歩き出したあと、根本から思い出したかのように呼び止められた。「そうだ! 自分のところの宣伝みたいで申し訳ないですが……」美鈴は声の主の方へ振り返り首を傾《かし》げて返した。「はい?」「実はですね、もうすぐ毎年恒例のウォーキングイベントがあるのですが、 よろしければ参加してみませんか? 一緒に参加するご友人とかご家族がいらっしゃらないのであれば、わたしがお供しますので」目の前のイケボが言う。『わたしがお供しますので……』『わたしがお供しますので…』『わたしがお供しますので』行くに決まってるでしょ。「予定が入っていなければ、参加させていただきますね」「ありがたい。じゃぁ、詳細をご連絡したいので名刺に載せてるわたしのメールアドレスに空メール送ってもらえますか」「……はい分かりました。今どきは名刺にメルアドも書いてあるんですね」「はははっ、役所
84俺は知らないことにして尋ねた。だって、薔薇の部屋で勝手に覗いて読んだなんて言えないよ。「言って、それが何だったのかはっきり教えてくれないか」「綺羅々と奈羅が一夜を共に過ごしたと分かる映像が透明タッチパネルに送られてきたの。すごく悲しかった。私も綺羅々のこと好きだったから」もしもここで何も知らずに真実を知ったならと思うときっと、なんと怖ろしや、自分は混乱してしまったことだろうと思う。やはり、自分の知らないところで薔薇は苦しんでいたのだ。しかし、そうは思うもののせめて薔薇が自分を責めてくれていたら……と、到底無理なことまで考えてしまう。なんであの日酩酊状態になるまで酔っぱらってしまったのか、自分。なんで、もっと早くに薔薇に好きだと口に出して言わなかったのか。考えても考えても、後悔ばかりが襲ってくる。僕たちは奈羅の手によって両片想いを断ち切られていたのだ。しかも、薔薇も自分と同じ気持ちでいてくれたことを知った今では奈羅の所業は許せるものではなかった。そして薔薇を傷付けたことも到底許せはしない。「ただ酔っぱらって寝てただけなのに、君と僕の仲を裂くために奈羅が何かあると勘違いしそうな映像を君に送ったんだ、きっと。それが真相。あれから僕は君を上手くあの時の時間軸の金星にどうにかして連れ戻したくて、長老の所へ行き勉強してきたんだ。さぁ、まだ間に合うから僕と一緒に行こう」「綺羅々、ごめんね。私、ちゃんとあの時あなたに向き合えば良かった。でも好きだったあなたに奈羅とのことは本当にあったことだと……奈羅のことが好きだと言われるのが怖かった。本当に好きなのは彼女で私とは軽い気持ちで飲みに誘っただけだと知るのが怖かったの。早とちりして、地球に逃げてしまってごめんなさい。こんな私の事を長い間待っていてくれてありがとう。だけど……」「だけど?」
83 ―――――――――― 夫からの今際の遺言 ―――――――――「古の契りを結んだあの時よりも、一緒に暮らせた今生でもっともっと君を 好きになった。 今までこんなに人を愛したことはない。絶対次の世でも一緒になろう。 もしも、美鈴がはぐれてしまったとしても僕はまた何年、何十年、何百年か かろうとも這ってでも君のところまで迎えにいくよ。だから待っていて」『―――――― で待っていて』と夫は呟やきあの世へと旅立っていった。 ―――――――――――私は子供たちに見守られながら、現世を離れた。 今はあの世と現世の狭間にいる。 先に逝ってしまった夫は今どこにいるのだろう。 いないはずの夫の姿を探していたら見知った顔が近づいてきた。「綺羅々、どうして……」 「薔薇《美鈴》、君が誤って地球に生れ落ちてしまった時は本当に つらかったよ。 どうしてあんな場所に連れていったのかと自分を責めもした。 それで長い間君が地球での一生を終えるのを待ってたんだ。 迎えに来た。どう? 金星にいた頃のこと思い出した?」「どうして地球に来て私を慰めてくれたの? そしてどうしてこんなところで私を待ってるの?」 「薔薇のことが好きだからさ」「そうだ、私、薔薇って呼ばれてたのね」「思い出せたんだ、良かった」「でも、あなたは奈羅のことが好きだったんじゃ……なかったの?」「違うよ、僕は君が……君のことが好きだったんだよ」 「嘘っ。私はあなたに振られたと思い裏切られたような気持ちになって、 それが辛過ぎてあの日、わざと滑り台の上から地球上に滑り降りたの」「どうしてそんなふうに思ったの? あの日は酔い過ぎて失態を晒してしまったけど、僕は薔薇と初めていっぱい 話せてすごくうれしかったのに」「だって……奈羅から見たくなかったものが送られてきたのよ」
82美鈴と圭司夫妻は、結婚して2年後に娘を授かった。そして、そのまた2年後に息子を授かり、彼らは4人家族となる。結婚後、立て続けに2人の子供に恵まれた美鈴は、元々在宅仕事をしていて融通が利くため、下の子が4才になるまでほぼ専業で暮らした。なので、贅沢はできなかったが、休日になると圭司が子育てや家事をできるだけフォローしてくれ、ストレスが溜まりがちな子育ても楽しみながらでき、2人の子供たちに思い切り愛情を注ぐことができたことは、非常に喜ばしいことだった。そして、いつも美鈴のことを気遣い子供たちにも愛情をたくさん注いでくれる圭司との暮らしは、美鈴にとって夢のようでもあり理想的な人生となった。好き合って結婚した相手から裏切られるという経験をしていた美鈴は、再婚にあたり実は少し不安を抱えていた。どんなに誠実な人でも心というものを持つ人間には、心変わりというものが常に付きまとい、誰がいつ新しい出会いで気持ちに変化が訪れるのか、誰にも分からないものだから。 ***やがて、子供たちそれぞれに愛する人ができ、彼らが家庭を持った時、美鈴は感慨い深いものを感じた。私と夫はまだ今でも信頼し合い愛情を持って一緒にいられる。これは本当に幸せなことだわ、と。そして、家から子供たちが巣立ち、また元の2人の暮らしに戻り日々の暮らしを積み重ねる日々の中で、1日また1日と夫と仲睦まじく過ぎてゆく日々に感謝と喜びを胸に刻み続けるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇そのようにして2人の愛しき人生はその後も続き、85才で圭司は天寿を全うし、美鈴もあとを追うようにして2人の間にもうけた息子と娘に看取られて、88才老衰で長患いすることなく別の次元へと旅立っていった。 ――――――――――――――――――西暦2022年からお話は始まっていますので、根本圭司が亡くなるのは――2077年頃 根本美鈴が 〃 2075年頃 すごいっ、どんな世界なのでしょう。 ――――――――――――――――――
81大好きな男性《ひと》の肌に触れ続けていくうちに、声にして出《だ》そうなんて思ってもみなかった言葉がいつの間にか零れ落ちる。「あなたが赤ちゃんだった頃、ヨチヨチ歩きを始めた頃、たどたどしく話ができるようになった頃、運動会で走っている姿、学生服を誇らしげに着ている姿、大学生のあなた……どのあなたも見ておきたかった。私を見つけてくれてありがとう」そう告げながら美鈴はいつの間にか圭司の背中に全身を預けて、そして泣いていた。この時の美鈴の心情は、恋人としてだけではなく母性の加わった母親でなければ感じられないような域にまで達していた。それまで美鈴の下で心地良さとともに美鈴の重みに耐えていた圭司が美鈴を抱きかかえるようにしてグルリと身体を動かし2人の位置が反転した。圭司が美鈴を組み敷いた格好になり、美鈴の目に溜まる涙を親指の腹でひとすくいしたあと、近くにあったティッシュを渡してくれた。「ありがと。君のやさしさが心に染みたよ。幸せなのにすごく胸が苦しい。この苦しさを解放したいな」そう言うと圭司の口付けが、美鈴の顔の上に落とされ、やがて口元へそして最後に唇へとやってきた。幾度となくはまれ、ついばまれ、美鈴は切なさと喜びが綯《な》い交ぜになり何も考えられなくなる状況の中、されるがまま圭司の行為を受け入れた。この夜のことは、二人にとって生涯忘れがたく素晴らしい時間になったことは言うまでもない。このようにして、この旅で互いの絆をより一層深めて帰路についた2人は、バタバタとその後、それぞれの遠方に暮らす両家の親に挨拶に行き、結婚式も挙げず記念撮影のみで籍だけ入れて結婚を済ませた。
80 「有難いけど……君よりデカい僕の身体を抱くのは難しいんじゃない?」 「そうなの、そこが大問題なんだけどでも抱きたい。 どうしたらいいかなぁ~」「じゃあさぁ、取り敢えず君の前に滑り込んでみようか」「うん」 『馬鹿だなぁ~そんなの無理だよ』とか一刀両断せずに、協力してくれる 彼に私は増々恋心と切なさとを募らせた。私の両脚の間に座った……座ってくれた彼、疲れるだろうに程好い加減で 私に半身を預けてくれる。 到底私が腕を回しても両手を組めそうにもない彼の身体を後ろから抱きしめる。 私は彼の逞しくてきれいな肌の背中に顔を埋《うず》めてみる。「いい匂い……石鹸の匂いがする」「いい気持ち、背中でいい気持ちになったのは初めてだよ」「「ふふっ」」 「ありがと。この体勢だと圭司さん疲れるでしょ。 あのね、ほんとに気持ち良くなってもらいたいから今度はうつぶせ寝に なってください」私がそう言うと、うつ伏せの体勢になるため起き上がった彼が、座っていた 私の手を取り、立ち上がらせてくれた。 そして「じゃあ僕も少しの間ハグさせて」と言い、私はしばらくの間 彼に抱きしめられた。そしてそのあと、彼はベットに横たわりうつ伏せになった。「えーっと、今から私がすることって私にとっても初めてのことだという ことを知っておいてください。他の誰にもしたことがないことをさせていただきます」 『誰にでもするような変な女と思われたくなくて先に断りを入れた』「うん」圭司さんは俯いたまま返事をくれた。 今からしようとすることを考えると、こちらに視線を向けられなかったこと は有難かった。私は彼の腰辺りの位置に両膝をついて彼を愛でていくことにした。まず彼の肩から腕にかけて何度も両手で撫でた。背中、腰にも手を延ばし、マッサージを続ける。 「気持ちいい……」と言う彼の呟きが聞こえ嫌がられていないことを知り、 続けてそのまま愛でるように首筋から始まり腰までを、何往復も両手で緩急 をつけマッサージを続けた。
79◇その時がきた私たちはこれまでのようにまったりと2人の時間を紡いでいた。いつも会っている時は彼の存在を感じて幸せだった。そして別れ際におでこに軽いタッチのキスを落とされたことは二度三度あったけれど、そこ止まりの付き合いが続いた。そうそれは、まるで学生のような清い付き合い方だった。そのせいか週末会える時は、1週間分のトキメキとドキドキ感が半端なくいつかその日を迎える日がくれば、自分はどうなってしまうのかと不安を感じるほどだっだ。そんな中、いつものように近所回りを散歩して私の畑に差し掛かった時、圭司さんからゴールデンウイークに海外への旅行を誘われた。国内をすっ飛ばしてのいきなりの海外旅行に少し驚いたけれど、うれしかった。3泊4日くらいで行くことになり、私たちはその日を楽しみにお互い仕事や家事を頑張りその日を迎えた。――――――――――― 初めての夜 ―――――――――――旅行先の1泊目はお疲れ様タイムということで嘘のようだけど、友だち関係のように長年連れ添った夫婦のように疲れをとるため、お休みのキスだけをして静かに 就寝した。そして翌日はクイーンズタウンで観光を楽しみ、早めにホテルに戻った。今宵こそは私たちにとっての初めての夜で暗黙のうちに迎えた瞬間、その時はきた。 ◇ ◇ ◇ ◇先にベッドに入っていた圭司さんからシャワーを終えたばかりの私は『おいで』と手招きされる。私はドキドキしながら彼の横に滑り込む。彼がすぐに手を握ってくれた。「こっち向いて」「何か恥ずかしい」そんな言葉を口にしつつも私は言う通り彼の方を向いた。するとゆっくりと彼の口付けが私の唇に落とされた。それは軽くそして深く、互いの唇が重ねられていく。彼が私を見て微笑んでくれ、このタイミングを逃さず私は自分の切なる望みを口にした。「私、あなたを抱きたい《肌を合わせたい》全身全霊で」
78引き続き、2月も畑を耕す作業は続いた。そして今日も、私は相変わらず彼が耕運機で再度作業している横で、チマチマと畑の端で雑草抜きをした。今日もこのあと2人で夕飯を摂る。朝のうちに仕込んでおいた炊き込みご飯とお豆腐とネギ、ワカメ入りの味噌汁、さわらの塩焼き、きゅうりとわかめ、おじゃこの酢の物が作業後に待っている。耕運機から降りてきた圭司さんと雑草を一通り抜き終えた私は「「お疲れ様」」と互いに声を掛け合った。しばし、私が空気の冷たさに手をこすっていると、彼が上から大きくて暖かい両手で包み込んでくれた。「えーっ、あったかい。どうして?」恥ずかしさを隠して私は彼に訊いた。「子供のように身も心も純真だからだよって言ったら聞こえはいいけど、心が単に子供なんだよ」「あっ、分かった。幼稚ってこと?」「そういうとこ……」話ながらいつの間にか、私はすっぽりと彼の腕の中にいた。『ずっと、こうしてたいな……』私は何て言えばいいのか分からなくて空を見上げた。「茜色の空がきれい……。とても幸せです」そんなふうな言葉がきれいな夕焼け空に感化され、口をついて出てきた。すると、圭司さんが私の頭の上にそっと顎を乗せて「僕も……」と言ってくれた。その瞬間不思議な感覚に襲われた。宇宙からそのまま地球に向かって、地球上の畑にいる私たち恋人同士をズームインして俯瞰されている気分になる。その視点は私の肉体を超えた存在だと感じる。初めての体験に私は心震えたのだったが、このあともっとすごい感覚を体験することになった。もともと根本さんには好感を持っていたし、自分たちが今生結ばれる縁だと知らされてからどんどん好きになっていったのは確かだけれど、一緒に夕飯を摂っている時にそれは……その感情は突然訪れた。私の心の臓が、もとい、私の心臓が俄かに騒がしくなってきたのだ。根本さんの食事をしている様子を見ているだけで恋しい気持ちが募り、そのあまりの気持ちの強さに私は落ち着きを失くす。彼を抱きしめて……頭も肩もその背中も腕も、全て自分のものにしたいなどという、襲ってしまいたいという欲情に付き動かされることに。こんな怖ろしい初めての自分《私》の感情など知る由もない彼は、いつもの通り紳士的な振る舞いで時をやり過ごし、車で帰って行った。どうしてこうなった
77 年が明けて1月は寒かったので、どちらかの家で過ごすことが多かった。そんな中、ドライブを兼ねてお寺巡りなどもした。そして2月の初旬の土曜日にはウォーキングをして、なまった身体を引き締めようということで、寒い中、その辺を散歩することになった。7~8分歩くと、ちょうど草ぼうぼうになった我が家の畑の側を通ることになる。足を止めて、私は根本さんに言った。「ここ家《うち》の畑なんです。数年前までは母の知り合いに野菜を栽培してもらってたのですが、その方もご高齢で足腰が弱ってきて作れなくなってしまって……。そのあとは若い人の知り合いもいませんでしたし、私もここからすぐに通えるようなところに住んでなくて、その上、そのあと父が亡くなり母親は再婚して遠方へ嫁いで行き、というようになって、結局畑は今のような状況になってしまいました。でも落ちついたら少しずつでも野菜を作ってみたいなぁなんて考えてはいるんですけど、広くはない畑ですがそれでも私一人だとちょっと手に余りそうな感じです」「野菜をもう一度作るための土にするのは手作業だけではできないですからね。家に車で運べる小型の耕運機があるので今度持ってきますよ」この日そんなふうに言ってくれた根本さんは翌週、約束通り畑まで運んでくれてその上、自ら畑をその耕運機で耕してくれた。今年は畑の回復を目指し植え付けをせず、自宅の庭や公園などで拾ってきた落ち葉を梳き込み除草剤は使わずに定期的に耕していけば、雑草の根も繁殖せずに秋には枯れた形になり、土と落ち葉も撹拌《かくはん》されるので来年は良い土壌になるんじゃないかと考えている。ということで、植え付けは来年までのお楽しみだ。何を育てようかなと考えるだけでもあぁ楽し。こうして1月のデートは畑の土壌作りに終始した。そして作業終わりには我が家でのまったりお家ごはんに会話タイム。
76私は翌日早々に離婚届を出しに行った。昨夜、よほど根本さんにもう夫から離婚届を受け取っていて、あとは出す だけであると話そうかと思ったのだが、やはりちゃんと届けを出したあとで 正式に離婚し、何のしがらみもなくなってから伝えた方がいいように気が して、話せていない。できるだけ早く伝えたいという思いから、離婚届を出した後すぐにメールで 伝えようかとも思ったけれど、これってメールで伝えるようなことじゃない ような気がするのよね。それで年内に話すことができればいいのにとうじうじ考えていたら、数日後 に根本さんから『除夜の鐘を聞きに行きましょう』とのお誘いがあり、何と か今年中に報告できそうな予感。大晦日になり、私たちは約束通り近隣のお寺《本能寺》に向かった。歩きながら道々、私は真っ先に 「実は先週夫の所へ行って離婚届を受け取り、月曜日に市役所へ行き、 出してきました」と、離婚が成立したことを話した。 「ちゃんと受理されましたか?」「はい、思ったよりあっけなかったです。 家を出た時は、いつかはっきりと離婚が決まって届けを出す日がきたら、 未練なんてこれっぽっちもなくても、多少感傷的にはなるのかもしれない って思ってました。けど、そういう感傷的になんてちっともならなくて、さっぱりとした気持ちむで役所から帰って来れました。たぶん根本さんのお陰だと思います」「なら、良かった。 じゃあ今からあなたのこと、下の名前で呼ばせてください」「はい」「美鈴さんも僕のことは圭司《けいし》と呼ばないと駄目ですよ」「はいっ、が……頑張ってみます」「うれしいです。あなたにしがらみがなくなって。 これでお天道様に恥じることなく付き合えますからね」「はい……」私は心の中で彼に謝罪した。『ごめんなさい。一度、他の誰かと結ばれてしまった身で』と。これは心の中でずっとこの先も思い続けると思う。だけど、彼に言うつもりはない。 こんなことを言ってしまえば、彼を嫌な気持ちにさせるだけだと思うから。 私が結婚する前に私たち、出会えれば良かったのに。だけど、欲張ってはいけないのかもしれない。 出会えてなかったことを考えてみれば、こんなふうな再会になったとはいえ、 今生で今からでも夫婦になれるような形で出会えたのだから。 しみじみと感傷に浸